g-kenknの日記

ボルネオ・peace・Memorial

「人生を紡ぐのは、出会い」

 数え切れない人たちと出会い、別れてきた。別れてそれきりの一もいるし、忘れてしまった人たちもいる。今はもう忘れた人からも、いろいろ学んできた。今も繋がっている沢山の人たち。予め知っていて、会いたくて会った人もいるし、思いがけず偶然の出会いの人もいる。どういう出会い方であれ、出会って一緒に過ごした時間の長短に関わりなく、大きく動かした人たちがいる。縦糸と横糸の巡り会いの妙だと思う。私の人生に大きな影響を及ぼした三人について、語りたい。

① 名も知らぬ少女との出会い

   私は大学生活を、早稲田奉仕園友愛学舎というキリスト教学生寮で過ごした。禁酒禁煙、女人禁制という男子寮で、年間通して朝は7時から聖書を読む勉強会があった。そこで一緒だった友人から、お母さんが福岡県小倉市(現在は北九州市)郊外で障害をもつ子どもたちの教育をしているが、非常に困っている、助けて欲しい、と言う話を聞いた。友人の母親は数人の今で言う知的障害の子どもたちを育てながら悪戦苦闘している個という個だった。そこで、何人かで相談して有志を募り現地に行き、労働奉仕をしようじゃないかと言うことになった。私にとって初めてのワークキャンプへの参加であった。現地は、「あすなろ学園」という名の私立の養護学校で、友人の母親は7~8人の少年少女らと寝起きを一緒にしながら読み書きを教えたり、いわゆる全人教育をしていた。その小さな学校は高台にあって、道路に出る道がなかった。

   私たち学生は、東京駅から東海道線に乗り、山陽線経由で小倉に行き、バスで「あすなろ学園」に行った。新幹線のまだない頃、多分10時間以上かけていったのだと思う。「学園」に寝泊まりして、昼間は作業をした。道造りの作業である。スコップや鍬を持って、慣れない作業をした。成果がどうだったか憶えていないが、暑くて汗をかき、喉が渇いて水を飲み、その水が思いがけず美味しかったこと、着かれると言うことがこんなに幸せ感があるものかと初めて思ったことを憶えている。

   疲れの余韻を楽しみたくて、夕方のフリータイムはひとり園庭のボランコに乗っていた。汗で濡れたシャツが冷たく感じられる時間だったが、その感じも悪くないなと感じている時、ひとりの少女がやって来て隣のブランコに乗った。小学校4年生の彼女と話すのでもなく、それでもちょっとは言葉を交わして、しばらくの時間を過ごした。初めて味わう安らぎと言おうか寛ぎと言おうか、何とも言えない心地よい時間の流れの中で、ブランコがゆらゆらと揺れていた。多分そんなに長い時間ではなかったろうし、二三言交わした言葉の中には、彼女の名前も出てきたかも知れない。名前も忘れたし、お下げだったことは記憶にあるが顔も忘れた。私にとって大事なことは、心に刻まれた確かな快い時間 ただ側にいるだけで。これは何なのだ、と思える時間を彼女と共有したのは、これが正に出会いだったと言うことだろう。

   ワークキャンプに参加して汗にまみれて働いた身体で感じた快さと、夕暮れ前の時間に味わった心豊かさは、それ以来ずっと私の中に留まっていた。その後卒業後の進路を決める時、こういうことが職業に出来たらどんなに幸せだろうという思いが心を離れなくなった。あの名も知らない少女との時間がなかったら、そこまでは思わなかったに違いないと、その後思い出す度に思う。単に楽しいとか寛ぐとは違った、心の世界が変わるような出会いだったと思う。教員志望を施設職員希望に切り替え、大学卒業後1年間、埼玉県浦和市郊外になる国立武蔵野学院の職員養成所に入って研修を受けた。此処でも様々な出会いがあった。良い出会いに恵まれて、私は幸せだと思う。

私がこれまで、現場に経ち続けたいと思ってきたのは、名も知らない彼女と出会った時のあの感覚への郷愁なのかも知れない。強烈というのではなくて、言葉にならない豊かな何かだったと思う。

 

浅野史郎さんとの出会い

   浅野史郎さんとの出会いは今から30年前である。本当は浅野さんではなく、課長!と呼びかけたいのである。なぜなら、国の障害福祉課というのは、日本中の福祉の中央情報センターであって課長は正に責任者の意識を持って仕事をしなければならないと、新任の浅野史郎障害福祉課長は言い、燃えて仕事と取り組んだ日々が、課長!と呼びかけると再び戻ってきて燃え出すような気がするからだ。実際に浅野課長の下で働いたのは1年9ヶ月という短期間だが、彼から働くことについて様々なことを学んだ。私より幾つも若い彼からであす。働く姿勢、仕事を楽しみながらする喜び、命を大事にすることの意味などである。

   浅野さんが課長として着任した時の職員への訓辞を書きとどめることにする。