g-kenknの日記

ボルネオ・peace・Memorial

先ずは阿波の里から

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 朝の散歩は清々しい。退職後ならではの楽しみだ。何の力みもなく頭も使わず、散歩そのものが楽しめる。目に映るもの全てが美しく吸う息も吐く息さえ美味しい。若い頃はダイエットの目的で、ウオーキングの研究したものだ。どの時間帯が最も効果的か。朝か昼か夕方か夜か、時間は何分が良いか、歩数はどれほど、姿勢や歩幅など、本を読んだり話を聞いて、さてその時間をどう生み出すかと悩んだりもした。何度計画を繰り返したことだろう。結局どれも長続きせず、ウオーキングは単純すぎるから難しいと、妙な敗北感が住み着いてしまったようだ。

 マレーシアで比較的長く実行したのは、シブの森林公園のウオーキングだ。サラワク州の森林局が造った公園で、自然の森を切り開いて、幅5 feet程の木の橋を総延長10Km程かけてある。ウオーキングもしくはジョギング用に作られたもので、街の人々が友人と、或いは家族連れ出来て歩く。若い恋人風もいれば老夫婦も居て、職場のサークルのような集団とも出くわす。橋の材質はアイアンウッドとかブリアンウッドと呼ばれる家の柱などに使う堅い木材だ。運動靴で歩くと実に歩きやすい。ところどころに東屋のような休憩所がある。売店などは一切ない。トイレは入口にあるだけ。破損箇所が見つかると直ぐ修理の人が来るし、ゴミなどは全く落ちていない。夜は門が閉まる。入場は無料のところと1人50セント(1リンギットの2分の1~約15円)取るところがある。

 この森林公園には主に午後から夕方にかけて町の人たちがやってくる。大きな駐車場に車を止めて運動靴に履き替えて歩き始める。何人かのグループで来る人、ひとりで来る人、ご夫婦らしき人など様々だ。楽しげにおしゃべりをしながら歩く集団もいるし、如何にも老後の楽しみという感じで杖をついてたり手を繋いで歩くお年寄りもいる。自分で好きにコースを選べるから、体調などに合わせて距離を調節出来る。虫が鳴いたり、小鳥の声など、時に賑やか、シーンと静かな一瞬もある。そんな中を如何にもアスリートらしく、駆け抜けて行く若者もいたりする。歩きながらは追い越した時も越された時も声はかけないのだが、すれ違った時は声をかけることが多かった。最後は出発地点に戻るのだが、戻ってくると矢張りホッとして、会話がしたくなる。初めの内は何処から来たから始まって、何をしているか、マレーシアをどう思うかなどの話が多かったが、お互い馴染みになってくると、最近の日本の様子や世界情勢、時には昔の日本軍に関することなども話題になって、本音はこんな風に思っているんだといったような驚きもあった。

 歩いていて出会った人と街で会ったりすると「ハロー」と声をかけてくれるのだが、エッ?どこであった人だっけ?と戸惑うことも度々であった。そうすると、ほら、森林公園だよ!と教えてくれたりしたものだ。何となく仲間の気分で嬉しいのだが、人の見分けが付かないのには困った。練習のしようがない。兎に角あちらの人は良く人の顔と名前を覚える。こちらが外国人だから憶えやすかったのだろうか。 

 

 さて、阿波の田舎の今の散歩。時間は朝と決めた。空気が新鮮で何とも美味しい。車が一台しか通れない道幅のせいか、車は殆ど通らない。いわゆる農道である。道の両側は主に畑。この畑を見て歩くのが楽しい。昨日の朝と今日は違う。昨日は一日農家の人たちが働いた跡がくっきり残っている。或いは殆ど何も変わった風情のない日もある。野菜のゆっくりした成長が、急に早くなったみたいに、昨日まで気づかなかった実の生育に驚く日もある。収穫した後の草が生えかけていた畑は、やがて畝が出来種が蒔かれ、芽が出て育つ。見る間に育つもの、あまり急がないもの、様々だ。

 歩きながら思ったことが二つある。ひとつは様々な農業機械が入っていることだ。畑の顔が一日で変わる原因のひとつに機械の力がある。昨日草だらけだった畑が、今日はもうきちんとした畝が立ててあったりする。昼間はあまり歩かないので、どんな機械類が活躍しているのか確かなことは分からないが、農家の庭の奥を伺うと、耕耘機ばかりでなく、数種類の苗植え機などの特殊大型自動車が見える。農家も大変だなあと思う。支払いに追われていることだろう。若い人たちは職を見つけて街に出て行き、どの地方も変わらず農業を守るのは中高齢しゃになった。先が思いやられる。高価な器機の支払いが済むまで農業が続けられるのだろうか。それまでの間に何かあったら、その後はどうなるのだろうか。

 もう一つの課題とも此処で結びつく。朝、気持ち良く朝の空気を吸いながら歩いていて機になるのは休耕田である。何も使ってない畑だ。結構な数の畑に、何ら手が付けられず、草ぼうぼうになっている。大小さまざまの区画が、如何にも見捨てられたと訴えているようで哀れだ。何か有効活用の道はないのだろうか。国土面積、耕地面積が充分とは言えない日本で、どうしてこんな無駄が許されるのだろうか。

 上に書いた最新の農業器機と休耕田を「ゴトンロヨン」で結びつけることは出来ないだろうか。空いた農家を見つけ、休耕田を集め、農耕器機を持つ農家に呼びかけて、そこに若者が参加するプロジェクトが可能ではないか。今はやりの地方創生に留まらず、国土と暮らしの再発見は出来ないだろうか。

 朝の散歩から生まれた私の妄想を実現してみたい。