g-kenknの日記

ボルネオ・peace・Memorial

この子たちは、どう生きるか ①

 デイセンターの建設

 

 それから私は、私のロングハウスのトアイ ルマ(長)であるマイケル ジャラックに相談した。そして、近くに17あるロングハウスを個別に訪問して暮らしの実状や障害をもつ人たちに関する調査をすることにした。この地域にどんな障害をもつ子どもたちがどの位いて、どんな暮らしをして居るのかを知りたかったし、彼らのニーズ、親たちのニーズを知りたかった。大人は大抵昼間働いているので、あらかじめ夕方の時間で相手の都合を聞き約束の時間に訪問、同じロングハウスを2回訪問、調査日は週2日ということで計画を立てた。道案内、通訳等の全てを引き受けてくれたマイケルも、これなら大丈夫と言うことで、調査票をつくったり、訪問時に持って行くお土産を用意したり準備万端を整えた、と思った。が、そう簡単に見通したようには行かなかった。夕方、1カ所のロングハウスで1時間と予定を立てていても、実際にはロングハウスの人たちが沢山集まってきて答えてくれる。その内、それぞれの家でつくった独特のお酒(Tuak)が出てきてみんなで飲み始める。従って一夜に2カ所は無理で、一晩一カ所、6時前から8時過ぎが普通になった。そもそも障害をもった人が居ますかと尋ねても、答は決まって居ないとなる。障害を隠している訳ではなく、障害という言葉の意味が通じていないのだと分かってきた。日本でもかつて、障害といえば身体障害で、足や手がないとか目が見えない耳が聞こえないなどに限定されていたことを思い出した。そういえば、国際障害者年(IYDP 1981)の頃は、偉い人が式典に来て”国際身体障害者年”などと言って平然としていたことを思い出した。

 この方式の調査では知りたいことを知ることは難しいと考え、同じロングハウスに毎週訪れて学齢だが学校に行かない子とか直ぐ喧嘩をする子などの様子を継続して見ることにして、結局半年余りを費やした。2005年の初めには凡その様子が分かり、数人の利用候補者の姿が見えてきた。あれこれ考えた末、障害児者が昼間通える「デイセンター」を建てようと気持ちを固めた。そして早速事業を行う団体の登録準備を始めた。この時有力な助っ人が現れるのだが、この出会いや関わりは何れ別の項で述べることにする。人との出会いの不思議、神秘的とも言いたくなる繋がりは、偶然と言うにはあまりに運命的であったが、後で少し詳しく、述べさせていただこう。

 調査に依ってある程度の状況が分かり、障害児者の「デイセンター」建設を決め、事業実施のための団体登録を準備することになった。団体の名称は当初ペナンのACSに揃えて、「サラワク コミュニティ サービス」(SCS)を考えていたが、登録局とあれこれ協議の結果、"Rajang central zone Community Service"(RCS)と言うことになった。外国人が責任者と言うことでクアラルンプールの本部との協議が必要と言うことで承認は大分先になった。

 事業の実施場所については、何人かから自分のところを使っても良いと申し出を受けた。最終的にはロングハウスのトアイルマであるマイケルに使用権のある場所を使わせて貰うことに決まった。ただ、此処は山で整地しなければならない。誠に恥ずかしい話だが、この段階になって資金計画が問題になった。「予算はどの位あるか。」「予算はない。」整地、建物建設、備品、利用者の毎日の通所方法、スタッフの手当、給食、その他の発電機購入や水道設備など、マレーシアとはいえ少なくとも日本円にして数千万円のアテがなければ普通は計画しないのに、予算はないがするという無謀な話。全容を知ったら誰でも身を引くに違いない。従って、誰にも言わず、密かに無謀のまま実行することにした。

 工事は2006年1月2日の朝始まった。3週間の予定で山の半分を切り崩し、1エーカーの平地をつくる工事だった。あの朝、ブルドーザーが威勢良く入っていった場面を今でも私は憶えている。いよいよ始まる、失敗は許されない。このデイセンターの建設に、本格的な業者が入ったのはこの整地工事だけだった。後は全部ロングハウスの人たち、日本の大学などに呼びかけたボランティアによるワークキャンプでやり抜こうと考えていた。勿論、常時建築に当たる現場監督とワーカーには日当が必要である。それらを合計して予算として確保したのは300万円だった。

 整地には予想外の時間がかかったが、兎に角1エーカーの土地が出来た。支払いは当初の契約通り3万リンギット、日本円で90万円だった。土地が出来た段階で簡単な平面図をつくった。まず、柱を立て、屋根を付けることになり、堅いブリアンウッドを購入する手配をすると同時に、第1回のワークキャンプを計画し、日本の知り合いや大学に募集をかけた。宿泊や食事の関係もあり、10人を超えることは出来なかったが、サポート隊を組織して、ホテル利用で参加して貰った。この第一回のワークキャンプの様子が地元に新聞に大きく掲載された。これは全く予想外であったが、そのことが素晴らしい展開に繋がった。新聞の読者から連絡があり、「日本からの若者がボルネオの障害児のために汗を流してくれている。地元の我々が有り難うだけで黙っている訳にはいかない」と言って、さまざまな形の寄付が届いた。

 このワークキャンプは2017年3月まで18回に及んだ。延べ130人、最年少は19歳、最年長の参加者は78歳であった。男女数は、男性  女性  人であった。またワークキャンプの他に、読売新聞光と愛の事業団が企画した海外ボランティア研修も  回に亘って労働提供をしてくれた。

 殆どゼロの資金計画にも拘わらず建物が完成したのは、地域的な寄付文化のお陰だと思っている。日本の若者が頑張ってくれていると感激して電話をしてきた土木資材会社の社長さんは、生コン9台、煉瓦15,000個、天井板400枚を寄付、他にもタイル4000枚とか教具教材類など、多くの寄贈を受けた。

  生コン9台分が来ると約束した日の朝、村人30人ほどと読売のボランティアが集まり生コンのローリーが来るのを待った。予定時間が過ぎてもローリーの姿が見えず、不安がよぎった次の瞬間、遠くに生コン車が見えた。来た!来た!生コンが来た。その後20分の間隔を開けて次々と来た。あの時の感激もまた忘れられない。