g-kenknの日記

ボルネオ・peace・Memorial

『77歳、三度目の旅立ち』

  「はしがき」覚え書き

 小学校3年生で転校した私は、友だちの名前がなかなか覚えられず、これが2度目の転校だったので、また転校があるかも知れないという思いもあって、腰が落ち着かなかった。靴を隠される程度のイジメにもあって、チビの私が軽い不登校になりかけた時、近所の同級生、背の高いタッちゃんが毎朝登校時に家に寄ってくれた。いろいろな場面で庇ったり助けてくれた。兄貴のような彼が居てくれたお陰で、あの小さな町を故郷と思えるようになったのかも知れない。そのタッちゃんが今は病の床に伏している。彼は地元の高校を出て、東京の大手鉄道会社に勤め、関連会社の高いポストで定年を迎えた。お子さんたちは自立し、彼は今しっかり者の明るい奥さんと都内で暮らしている。

 この間、彼の家を訪ねた。彼は実に見事な記憶力で、たまげるほど私の家族のことや昔の出来事などを憶えている。子ども時代を語り、その後の人生を語りあった。一緒に彼を訪ねたのは中込くんだ。彼は高卒後東京の衣料品の店に就職し、その後独立。主に紳士服の会社経営で成功したが、格安アパレル産業に押され出した時、負債を負わない内にと会社を閉じた。彼とは実は、中学時代に一緒に「うどん売り」のアルバイトをした。下校後の夕方、製麺所から生うどんを受け取り、自転車の後ろの木箱に生うどん100玉とか150玉を乗せて、戸別訪問で売って歩いた。昭和20年代の終わりである。貯まったお金で新しい自転車を買い、自分の自転車で売り歩けるようになって嬉しかった。自転車で家々を回る。ある家の前でキャッチボールをしている少年と父親が居た。度々会って、あいさつを交わすようになった。羨ましかった。私には父親が居なかった。母からボルネオで戦死したと聞かされていた。私が生まれた翌年、父は会社の派遣で2年の約束でボルネオ島に行き、やがて現地召集を受け、結局帰ってこなかった。あの第二次世界大戦は、世界中に沢山の不幸を生んだ。大事な人と無理矢理引き離された。世界中にそんな悲劇を生んだ。戦争は常に狂気だ。国が武器を取って他国民を殺すのが正義だという論理は、狂気としか言いようがない。

 中学時代は初恋もした。利発で可愛らしくて心の優しい女の子だった。チビで内気な私は彼女に何も言えなかったが、何となく仲が良かったと思う。朝は誰よりも早い時刻にほぼ一緒に登校し、夕方は先生に用事等頼まれて皆より遅れて下校する時も一緒のことが多かった。彼女と1回だけデートしたことがある。高校の卒業式が終わって間もなく大学の合格発表があって、私は東京に行くことになったと彼女に知らせたのだと思う。4月半ばに、今日、4月10日という記念の日にケンちゃんに手紙が書けて嬉しい、と言う便りを受け取った。当時の皇太子の世紀の結婚式当日に書かれた手紙には新宿で会おうと書いてあった。そして会って話をしたのだが、何を話したのか、どう別れたのか、何も憶えていない。彼女に初めて癌が見つかったのは今から30年以上前。その後あちこちに出来た癌を次々に手術しながら、彼女は精一杯闘った。彼女は本当に頑張った。ある時、”もう私の身体は中身が空っぽ。だけど友だちもいるし、したいこともあるし、行きたいところもある。ケンちゃんが居るマレーシアも行ってみたいな”と言いながら、「健ちゃん、forever」と書いたカードを渡してくれた。素敵な旦那様と素晴らしい家族と過ごし、数年前に彼女は逝った。

 私も77歳になった。元気な友人もたくさん居る一方、病んでいる友も他界して鬼籍に入った友も多くなった。

 昨年8月、マレーシアから日本に戻ってきた私の今の名刺には「農夫見習い」と書いてある。太陽の下で土と水と暮らしたいと思っていたが、ずっと出来ないでいた。今、妻の実家で、それが実現している。鍬をふるい、タネを蒔き、草を抜きながら、友のことを思い、過ごしてきた時代を思う。過ぎた日々のことは懐かしい。が、明日の日本、世界の今後を考えると、険しい気持ちにならざるを得ない。

 日本で過ごした50年を第一の人生とするならば、その後のマレーシアでの四半世紀は第二の人生、そして今は第三の人生を歩み始めたと言える。なぜ「革命」なのか。それは読んで味わって欲しい。これは私の革命だと思う。

                2018年3月

                                  中澤 健