g-kenknの日記

ボルネオ・peace・Memorial

世界の平和を目指す④(この宇宙で、人間の使命は何か)

 UFOは実在するのか。私たちは宇宙人と会うことが出来るのか。最新の技術を使って科学者はロケットや電波を飛ばして探っているが、今のところ宇宙人どころか地球外生命のかけらさえ見つかっていない。地球は、全宇宙の特別中の特別の星かもしれない。

 創造主は、このちっぽけな地球にだけいのちが生まれ栄える環境を整え、さらに特別に人間には「知」を与えたのだろうか。これを私たちはどう考えたらよいのか。時間も空間も、全てが無限の中で人間だけだとしたら、身震いしそうだ。地球、溢れるばかりのいのちの中の、人間だけの「知」。人間の使命は、豊かないのちと環境を維持存続させ、間違っても自滅したり破壊したりすることないように、最大限に「知」を生かすことではないか。仮に偶然生まれた存在であって神や創造主の意志ではなかったにせよ、自滅したり破壊して良い理由はない。人間は知によって科学技術を駆使し、環境を守り、平和の道を探り平和の世界を創る使命があるのではないか。

 宇宙がどこに向かうのか、何を目指しているのか、私たちには分からない。創造主の意志は想像もできないが、私たちには平和な世界を創り出す使命が負わされていると思えてならない。

世界の平和を目指す③ (本当に「優しさ」が本質?)

 平和の種を蒔いてその芽を育てよう!平和の種は「優しさ」だ、と書いた。人間の基本は優しさで誰もが持っていると書いた。だが、現実には人を憎んだり、嫌ったり、あの人さえいなければと思ったり、嫉妬したり裏切ったり、虐めたり、いろいろと良くない面を持っている。そっちの方がむしろ人間の本質ではないか、などと思える時がある。だが、ここが大事なところだ。よくよく考えてみると、それらの思いをもちながら心充ちてはいないということだ。それらは常に悲しみや切なさ、やりきれなさ、辛く苦い思いの原因があって、その裏返しなのではないかと思う。少なくともそこには快感はない。虚栄や妬みの思いに導かれた心の貧しさに根差しているのではないか。

 優しさが一番の基本というのは、誰でも常に心の芯のところで与えたかったり、得たがっている「愛」に一番近いのではないかと思うからだ。求め愛し合うことによってこの世に生を受けた「いのち」が、その、自分では呼吸しか出来ない状態でこの世に生まれ出た「いのち」が、まず最初に出会うのが人の「優しさ」なのであって、未熟であるにもかかわらず生き続け育つのはすべて優しさのお陰なのだ。だから私は、「優しさ、思いやり」が人間の基本と言えると思う。地球上のどこの地であれ、何時であれ。

 

世界の平和を目指す② (平和の種は優しさだ!)

  我ながら大きく出たなと思う。実際には一人一人が自分の場所で日常をつくり、積み重ね、それによって時代を変えようというのだから、やっぱりでっかく出たことには違いない。

 平和をただ戦争がない世の中とするのでなく、豊かな地域社会の世界への広がりだと考えることが基本だ。心豊かな健全な人間の営みが平和の素であることを認識して、小さい地域で住民が動き出すことから始めたい、というのが元々の考えなのだ。具体的には、平和の種を蒔いてその芽を育てようということだ。平和の種とは、「優しさ」「思いやり」。私たちがマレーシアのいわば未開の貧しい村で知った、本来の豊かさや人間の優しさ。自然と共に生き、その脅威にも家族や仲間と立ち向かい、乗り越えて祝いあう人々。そこに本質的な芯を見出したのだ。それに引き換え、先進国の都市部で便利と快適を享受し家族間でさえ連携連帯が薄れて生きる人々。お金さえあれば何でも手に入ると信じ込み、経済動向に一喜一憂する。だが、その先に平和な世界は待っていないように思う。

 しかしだからと言って、時代は逆には戻らない。折角得た便利で快適な暮らしも手放せない。では、どうしたら良いのだろうか。だから今がチャンスだ、と私は思う。

 

世界の平和を目指す①

 我ながら大きく出たなと思うけれど、実際には一人一人が自分の場所で日常をつくり積み重ねるということ。それによって時代を変えようというのだから、やっぱりでっかく出たことには違いない。平和をただ戦争をしないとするのではなく、豊かな社会の世界への広がりだと考えることから始まる。心豊かな健全な人間の営みが、平和の素であり、それに向けて、小さな地域で住民が動き出すことから始めたい、というのが元々の考えなのだ。具体的には、平和の種を蒔いてその芽を育てようということだ。平和の種とは、「優しさ」「思いやり」。私たちがマレーシアのいわば未開の貧しい村で知った本来の豊かさや人間の本質。自然と共に生き、その脅威にも家族や仲間と立ち向かい、乗り越えて祝いあう人々。それに引き換え、先進国の都市部で便利と快適を享受し家族間でさえ連携連帯が薄れて生きる人々。お金さえあれば何でも手に入ると信じ込み、経済動向に一喜一憂する。だが、その先に平和な世界は待っていないように思う。

 しかしだからと言って、時代は逆には戻らない。折角得た便利で快適な暮らしも手放せない。では、どうしたら良いのだろうか。だから今がチャンスだ、と私は思う。

 

ポスター制作、配布事業

 まず考えているのが、ポスターづくりだ。誰かイラストレーターかアニメーターを見つけて、ポスターを描いてもらう。何のポスターか?゙‥‥∵ 毎日見ても飽きない、笑顔と優しさがあふれている、楽しくなる、ずっと見ていたくなるポスターだ。「優しさは平和の種」「思いやりが平和を創る」「平和の種まき運動」・挨拶、何人できたかな ・今日は親切、できたかな ・有り難うの笑顔で居れたかな、書いて残して発表だ! 平和の種まき運動実施中。

 出来たポスターを印刷して、配布するというのが第一段階、問題は配布先だ。初めは県内すべての図書館と思っていたが、段々欲が出てきた。徳島県内にあるすべての図書館(室)、公共機関、いや、家庭にも配れないだろうか。徳島県内には、一体何所帯あるのだろうか。兎に角「優しさ」の文字で溢れさせたい、徳島県中に「優しさ」の文字が溢れ、優しさに県中が包まれたら、と想像するだけで夢のようだ。先ず調査!

 資金が必要だ。今考えているのが「クラウドファンディング」。知る人ぞ知る凡ての人たちに公開して大衆の資金を拠出してもらう道だ。重大な責任が伴うが、可能性はあると思う。この事業の概要、そこに含まれる夢を大いに売り出さねば。

世界の平和を目指す① (自分への”はしがき”)

 今日は2020年8月16日。終戦記念日の翌日、徳島新聞の「読者の手紙」欄に私の三回目の投稿が載った。初めが7月6日の平和への呼びかけ、2回目が、コロナ禍の時世で感染防止と経済とが同等に大事みたいな風潮に対して、先ず命が大事という認識が基本のはずだと訴えた。今回は、弱い小さいいのちを大事にする「思いやり」や「優しさ」を大事にしようと書いた。

 戦争の悲惨さや犯罪性を土台にした平和運動は以前からあって、署名活動や大会の開催、国連への訴えかけなどしてきたが、その中心にあるのは「非戦」という概念だったように思う。いま、時代そのものの精神性が委縮し、人々の心が勝ち負けや損得、お金や物、権力・優越指向、スピード一辺倒に向かい、それらの結果のように奇々怪々な事件が起こったりしているように思われてならない。時代の課題と向き合いながら、平和な世界を生み出すにはどうしたら良いのだろうか。

 この大きな課題に真正面から取り組むにはどうしたら良いのだろうか。時間がかかることを覚悟して、市民民衆が直接生み出す世界の平和への取り組みを、私なりに組み立ててみたい。人でも時間もかかるだろうけれど、本当の平和な世界への取り組みになるかもしれない。祈りながら、たゆまずに、たとえ一人でも歩を進めたいと思う。