g-kenknの日記

ボルネオ・peace・Memorial

[先ず、阿波の里から]

   暮らし初めて数ヶ月、はっきり言ってホッとしている。赤道直下のマレーシアで永年暮らしてきた私が、日本の冬を美事乗り切れるかは、私にとって結構深刻な不安だった。北海道生まれだから大丈夫と強がりを言ってきたものの、実は数年前に2月に一時帰国した折、関空についた途端に風邪を引いて酷い思いをした経験があるので内心はある種の覚悟というか、事態の推移によってはある種の覚悟を決めていた。が、ホッとしているというのは、何とか切り抜けた、と言う意味である。

   徳島と言っても私の家は徳島市内ではない。徳島の市街から直線距離で約30㌔、列車徳島線各駅停車で丁度1時間、車で走っても1時間の場所だ。地図で分かり易いのは、吉野川の河口から真っ直ぐ流れに沿って西に向かえばよい。吉野川に流れ込む大久保谷川の手前を右に曲がり、あわけんこう福祉センターの直ぐ隣が我が家だ。田園地帯、南には高越山の雄々しい姿、北側には讃岐山脈が走っている。その中ほどを広い川幅で吉野川がゆっくり流れている。

   マレーシアでは毎日100キロ以上を車で走っていた私は、日本に戻って来るに際して、自動車の運転を止めることにした。運転免許証は持っている。マレーシアに戻った時運転出来ないと滞在中の行動が大いに制限される。私の50万キロを超えた愛車が修理屋さんで待っていてくれるのだから。が、日本では運転を止めた。人ような時は妻が運んでくれるという。駅まででも、徳島まででも、思い肥料などを買う時でも。それ以外の時は自分の足で歩く。郵便局、スーパーマーケット、世話になっている家庭医の医院、吉野川の河原、大体片道15分から20分で行けてしまう。空のリュックを背負って、コイン精米屋さんに時々米糠(コメヌカ)をもらいに行き、背負って帰ってくる。畑仕事をしたり、歩いたりは、自分の健康状態を知るのにとても良い。体調が良く分かる。どこかがちょっと気になったり、歩幅が小さくなっていたり、息が切れることがあるが、今のところ12000歩位まではどうもないようだ。ちょっと歩き方が遅くなったかなと思って歩数計を見ると15000歩を超えていたりする。

   辺りを見ながら歩くと良いことが沢山ある。何と言っても景色が落ち着いている。遠く南の山が東西に連なり、北の山々も東西に折り重なっている。そして目の前には、稲を刈った後の田んぼ、芽が出てきた野菜畑、畝をたてたばかりの畑、もう大きく育っているのはブロッコリーだそうだ。毎日毎日畑の顔が違う。久し振りにと追う道だと、えっ、もう?と言うくらいに野菜の育ちの速さを感じたりする。大きい耕耘機や、名前も知らない大きな機会がドンと入っていたりする。畑を過ぎて農家の庭先には様々な花が咲いている。阿波市はコスモス栽培を促進するため助成金を出しているそうで、時期になると素晴らしいコスモス一面の景色が見られる。コスモス以外にも様々な花々、そうそう、農家の庭先や裏手には果物の木も多い。枇杷の時期からイチジク、柿、マレーシアで好んで食べたポーメロみたいな、でもあるはずはないから、大きな夏みかんだろうか?スダチがあちこちになる。

   別に時間を決めてウオーキングをしているのでなく、朝でも夕方でも用事があって歩くのだから、距離も方向も日によって違う。車を使わずに歩くことの良いことは、人と出会うことであろう。この、阿波町の住民だけかどうか分からないが、会う人がみんなにこやかに挨拶してくれる。ただ「おはよう」とか「こんにちわ」と言うだけだが、これがどうしてこんなに心地よいのだろう。すれ違う時でも、農作業の手をちょっと休めて「おはよう」と微笑んで貰うと、こちらも同じ言葉を返しながら、新参者でも受け入れて貰えているんだと、何だか認められたような思いが染みてくる。そして朝早くでも夕方でもそうだが、登下校の中学生の挨拶は何とも気持ちがよい。自転車で追い越して行く時、徒歩ですれ違う時、男の子でも女の子でも、おおきなこえで「こんにちは」と挨拶する。こちらも返しながら顔がほころんでくる。

    

   ちょっと寂しいのは、何もない畑だ。ところどころに、ただ雑草が生い茂り、今は誰もかまってないんだなという感じの畑がある。雑草の野原も良いのだけれど、折角畑にしてあって、如何にも放置というのは淋しいものだ。そんなのを見ると、よからぬ妄想がよぎる。実際、そこに青々と野菜が茂ったり、稲が育ったり、或いは果物の木が実をつけたらどんなに良いだろうなどと、もうそれが実現したような絵が浮かんでくる。そうだ、ゴトンロヨンだ!イバン族仕込みの共同作業の発想だ。畑が喜ぶゴトンロヨンを呼びかけるとなると、地主さんは? 作業は地元? どこかに大学生に声をかける? 宿泊は? 慣れない作業で汗をかき、バーベキューの良い香り、溢れた笑顔が友情を育む・・・この辺りで止めておこう。夢を見るのは楽しいのだが、夢のままがよいこともあるのだ。

   私はこんな、素敵な阿波の里にいつか、「ムヒバ」のメンバーを連れてきたいなあと、これも大きな夢を見ている。

[先ず、阿波の里から]

   暮らし初めて数ヶ月、はっきり言ってホッとしている。赤道直下のマレーシアで永年暮らしてきた私が、日本の冬を美事乗り切れるかは、私にとって結構深刻な不安だった。北海道生まれだから大丈夫と強がりを言ってきたものの、実は数年前に2月に一時帰国した折、関空についた途端に風邪を引いて酷い思いをした経験があるので内心はある種の覚悟というか、事態の推移によってはある種の覚悟を決めていた。が、ホッとしているというのは、何とか切り抜けた、と言う意味である。

   徳島と言っても私の家は徳島市内ではない。徳島の市街から直線距離で約30㌔、列車徳島線各駅停車で丁度1時間、車で走っても1時間の場所だ。地図で分かり易いのは、吉野川の河口から真っ直ぐ流れに沿って西に向かえばよい。吉野川に流れ込む大久保谷川の手前を右に曲がり、あわけんこう福祉センターの直ぐ隣が我が家だ。田園地帯、南には高越山の雄々しい姿、北側には讃岐山脈が走っている。その中ほどを広い川幅で吉野川がゆっくり流れている。

   マレーシアでは毎日100キロ以上を車で走っていた私は、日本に戻って来るに際して、自動車の運転を止めることにした。運転免許証は持っている。マレーシアに戻った時運転出来ないと滞在中の行動が大いに制限される。私の50万キロを超えた愛車が修理屋さんで待っていてくれるのだから。が、日本では運転を止めた。人ような時は妻が運んでくれるという。駅まででも、徳島まででも、思い肥料などを買う時でも。それ以外の時は自分の足で歩く。郵便局、スーパーマーケット、世話になっている家庭医の医院、吉野川の河原、大体片道15分から20分で行けてしまう。空のリュックを背負って、コイン精米屋さんに時々米糠(コメヌカ)をもらいに行き、背負って帰ってくる。畑仕事をしたり、歩いたりは、自分の健康状態を知るのにとても良い。体調が良く分かる。どこかがちょっと気になったり、歩幅が小さくなっていたり、息が切れることがあるが、今のところ12000歩位まではどうもないようだ。ちょっと歩き方が遅くなったかなと思って歩数計を見ると15000歩を超えていたりする。

   辺りを見ながら歩くと良いことが沢山ある。何と言っても景色が落ち着いている。遠く南の山が東西に連なり、北の山々も東西に折り重なっている。そして目の前には、稲を刈った後の田んぼ、芽が出てきた野菜畑、畝をたてたばかりの畑、もう大きく育っているのはブロッコリーだそうだ。毎日毎日畑の顔が違う。久し振りにと追う道だと、えっ、もう?と言うくらいに野菜の育ちの速さを感じたりする。大きい耕耘機や、名前も知らない大きな機会がドンと入っていたりする。畑を過ぎて農家の庭先には様々な花が咲いている。阿波市はコスモス栽培を促進するため助成金を出しているそうで、時期になると素晴らしいコスモス一面の景色が見られる。コスモス以外にも様々な花々、そうそう、農家の庭先や裏手には果物の木も多い。枇杷の時期からイチジク、柿、マレーシアで好んで食べたポーメロみたいな、でもあるはずはないから、大きな夏みかんだろうか?スダチがあちこちになる。

   別に時間を決めてウオーキングをしているのでなく、朝でも夕方でも用事があって歩くのだから、距離も方向も日によって違う。車を使わずに歩くことの良いことは、人と出会うことであろう。この、阿波町の住民だけかどうか分からないが、会う人がみんなにこやかに挨拶してくれる。ただ「おはよう」とか「こんにちわ」と言うだけだが、これがどうしてこんなに心地よいのだろう。すれ違う時でも、農作業の手をちょっと休めて「おはよう」と微笑んで貰うと、こちらも同じ言葉を返しながら、新参者でも受け入れて貰えているんだと、何だか認められたような思いが染みてくる。そして朝早くでも夕方でもそうだが、登下校の中学生の挨拶は何とも気持ちがよい。自転車で追い越して行く時、徒歩ですれ違う時、男の子でも女の子でも、おおきなこえで「こんにちは」と挨拶する。こちらも返しながら顔がほころんでくる。

    

   ちょっと寂しいのは、何もない畑だ。ところどころに、ただ雑草が生い茂り、今は誰もかまってないんだなという感じの畑がある。雑草の野原も良いのだけれど、折角畑にしてあって、如何にも放置というのは淋しいものだ。そんなのを見ると、よからぬ妄想がよぎる。実際、そこに青々と野菜が茂ったり、稲が育ったり、或いは果物の木が実をつけたらどんなに良いだろうなどと、もうそれが実現したような絵が浮かんでくる。そうだ、ゴトンロヨンだ!イバン族仕込みの共同作業の発想だ。畑が喜ぶゴトンロヨンを呼びかけるとなると、地主さんは? 作業は地元? どこかに大学生に声をかける? 宿泊は? 慣れない作業で汗をかき、バーベキューの良い香り、溢れた笑顔が友情を育む・・・この辺りで止めておこう。夢を見るのは楽しいのだが、夢のままがよいこともあるのだ。

   私はこんな、素敵な阿波の里にいつか、「ムヒバ」のメンバーを連れてきたいなあと、これも大きな夢を見ている。

「人生を紡ぐのは、出会い」

 数え切れない人たちと出会い、別れてきた。別れてそれきりの一もいるし、忘れてしまった人たちもいる。今はもう忘れた人からも、いろいろ学んできた。今も繋がっている沢山の人たち。予め知っていて、会いたくて会った人もいるし、思いがけず偶然の出会いの人もいる。どういう出会い方であれ、出会って一緒に過ごした時間の長短に関わりなく、大きく動かした人たちがいる。縦糸と横糸の巡り会いの妙だと思う。私の人生に大きな影響を及ぼした三人について、語りたい。

① 名も知らぬ少女との出会い

   私は大学生活を、早稲田奉仕園友愛学舎というキリスト教学生寮で過ごした。禁酒禁煙、女人禁制という男子寮で、年間通して朝は7時から聖書を読む勉強会があった。そこで一緒だった友人から、お母さんが福岡県小倉市(現在は北九州市)郊外で障害をもつ子どもたちの教育をしているが、非常に困っている、助けて欲しい、と言う話を聞いた。友人の母親は数人の今で言う知的障害の子どもたちを育てながら悪戦苦闘している個という個だった。そこで、何人かで相談して有志を募り現地に行き、労働奉仕をしようじゃないかと言うことになった。私にとって初めてのワークキャンプへの参加であった。現地は、「あすなろ学園」という名の私立の養護学校で、友人の母親は7~8人の少年少女らと寝起きを一緒にしながら読み書きを教えたり、いわゆる全人教育をしていた。その小さな学校は高台にあって、道路に出る道がなかった。

   私たち学生は、東京駅から東海道線に乗り、山陽線経由で小倉に行き、バスで「あすなろ学園」に行った。新幹線のまだない頃、多分10時間以上かけていったのだと思う。「学園」に寝泊まりして、昼間は作業をした。道造りの作業である。スコップや鍬を持って、慣れない作業をした。成果がどうだったか憶えていないが、暑くて汗をかき、喉が渇いて水を飲み、その水が思いがけず美味しかったこと、着かれると言うことがこんなに幸せ感があるものかと初めて思ったことを憶えている。

   疲れの余韻を楽しみたくて、夕方のフリータイムはひとり園庭のボランコに乗っていた。汗で濡れたシャツが冷たく感じられる時間だったが、その感じも悪くないなと感じている時、ひとりの少女がやって来て隣のブランコに乗った。小学校4年生の彼女と話すのでもなく、それでもちょっとは言葉を交わして、しばらくの時間を過ごした。初めて味わう安らぎと言おうか寛ぎと言おうか、何とも言えない心地よい時間の流れの中で、ブランコがゆらゆらと揺れていた。多分そんなに長い時間ではなかったろうし、二三言交わした言葉の中には、彼女の名前も出てきたかも知れない。名前も忘れたし、お下げだったことは記憶にあるが顔も忘れた。私にとって大事なことは、心に刻まれた確かな快い時間 ただ側にいるだけで。これは何なのだ、と思える時間を彼女と共有したのは、これが正に出会いだったと言うことだろう。

   ワークキャンプに参加して汗にまみれて働いた身体で感じた快さと、夕暮れ前の時間に味わった心豊かさは、それ以来ずっと私の中に留まっていた。その後卒業後の進路を決める時、こういうことが職業に出来たらどんなに幸せだろうという思いが心を離れなくなった。あの名も知らない少女との時間がなかったら、そこまでは思わなかったに違いないと、その後思い出す度に思う。単に楽しいとか寛ぐとは違った、心の世界が変わるような出会いだったと思う。教員志望を施設職員希望に切り替え、大学卒業後1年間、埼玉県浦和市郊外になる国立武蔵野学院の職員養成所に入って研修を受けた。此処でも様々な出会いがあった。良い出会いに恵まれて、私は幸せだと思う。

私がこれまで、現場に経ち続けたいと思ってきたのは、名も知らない彼女と出会った時のあの感覚への郷愁なのかも知れない。強烈というのではなくて、言葉にならない豊かな何かだったと思う。

 

浅野史郎さんとの出会い

   浅野史郎さんとの出会いは今から30年前である。本当は浅野さんではなく、課長!と呼びかけたいのである。なぜなら、国の障害福祉課というのは、日本中の福祉の中央情報センターであって課長は正に責任者の意識を持って仕事をしなければならないと、新任の浅野史郎障害福祉課長は言い、燃えて仕事と取り組んだ日々が、課長!と呼びかけると再び戻ってきて燃え出すような気がするからだ。実際に浅野課長の下で働いたのは1年9ヶ月という短期間だが、彼から働くことについて様々なことを学んだ。私より幾つも若い彼からであす。働く姿勢、仕事を楽しみながらする喜び、命を大事にすることの意味などである。

   浅野さんが課長として着任した時の職員への訓辞を書きとどめることにする。

 

 

この子たちは、どう生きるか ②

   開設への準備

 

 団体の認可は、既に2006年9月に下りていた。しかし、日本のように施設の運営費が国や州から支給されるという制度はない。運営が続けられるかどうかの不安は拭えないものの、開設しなければ何も始まらない。このままではフィロミナは、障害を外に出ることなく、おもちゃで遊ぶこともなく、友だちも出来ず、ひたすら人が来ると脅えて人生を終えることになってしまう。彼女の体形からしたら、いつ何が起こってもおかしくない。早くしなければ。このデイセンターの名前は、「ムヒバ」と決めた。「ハーモニー」のマレー語もしくはイバン語はないかと探したが、ぴったりする語は見つからなかった。そこで、ハーモニーの意味に最も近い「ムヒバ」をセンターの名前にした。さまざまな音やさまざまな色が程よく自己の味を出し合うことで新しい色合いや音が生まれる。此処に集う障害のある人も職員も誰もが、程よく自分の味が出せるセンターにしたい、此処から新しい音色が響いたら素晴らしいじゃないかとの思いを込めたのであった。

 建物の完成が迫った2007年9月から利用者リストをつくり、職員の募集を始め、利用者の面接計画を立てた。利用者面接は個別にロングハウスを訪問した。職員面接は出来たてというかまだ仕上げ中の「ムヒバ」で行った。

 開設当初の利用者は4名、募集職員は直接のケア職員2名、送迎の運転手1名、守衛2名であった。2ヶ月後には給食のパート職員1名が加わった。現在では事務職員も加わり、スーパーバイザーも独立してスタッフは8人体制、利用児者は25名になっている。2008年1月28日が実際に始まった初日である。昼食の給食はなく、短時間の試運転のようだったが、フィロミナもちゃんとお祖母ちゃんと一緒に通ってきていた。半月後の2月14日

   

この子たちは、どう生きるか ①

 デイセンターの建設

 

 それから私は、私のロングハウスのトアイ ルマ(長)であるマイケル ジャラックに相談した。そして、近くに17あるロングハウスを個別に訪問して暮らしの実状や障害をもつ人たちに関する調査をすることにした。この地域にどんな障害をもつ子どもたちがどの位いて、どんな暮らしをして居るのかを知りたかったし、彼らのニーズ、親たちのニーズを知りたかった。大人は大抵昼間働いているので、あらかじめ夕方の時間で相手の都合を聞き約束の時間に訪問、同じロングハウスを2回訪問、調査日は週2日ということで計画を立てた。道案内、通訳等の全てを引き受けてくれたマイケルも、これなら大丈夫と言うことで、調査票をつくったり、訪問時に持って行くお土産を用意したり準備万端を整えた、と思った。が、そう簡単に見通したようには行かなかった。夕方、1カ所のロングハウスで1時間と予定を立てていても、実際にはロングハウスの人たちが沢山集まってきて答えてくれる。その内、それぞれの家でつくった独特のお酒(Tuak)が出てきてみんなで飲み始める。従って一夜に2カ所は無理で、一晩一カ所、6時前から8時過ぎが普通になった。そもそも障害をもった人が居ますかと尋ねても、答は決まって居ないとなる。障害を隠している訳ではなく、障害という言葉の意味が通じていないのだと分かってきた。日本でもかつて、障害といえば身体障害で、足や手がないとか目が見えない耳が聞こえないなどに限定されていたことを思い出した。そういえば、国際障害者年(IYDP 1981)の頃は、偉い人が式典に来て”国際身体障害者年”などと言って平然としていたことを思い出した。

 この方式の調査では知りたいことを知ることは難しいと考え、同じロングハウスに毎週訪れて学齢だが学校に行かない子とか直ぐ喧嘩をする子などの様子を継続して見ることにして、結局半年余りを費やした。2005年の初めには凡その様子が分かり、数人の利用候補者の姿が見えてきた。あれこれ考えた末、障害児者が昼間通える「デイセンター」を建てようと気持ちを固めた。そして早速事業を行う団体の登録準備を始めた。この時有力な助っ人が現れるのだが、この出会いや関わりは何れ別の項で述べることにする。人との出会いの不思議、神秘的とも言いたくなる繋がりは、偶然と言うにはあまりに運命的であったが、後で少し詳しく、述べさせていただこう。

 調査に依ってある程度の状況が分かり、障害児者の「デイセンター」建設を決め、事業実施のための団体登録を準備することになった。団体の名称は当初ペナンのACSに揃えて、「サラワク コミュニティ サービス」(SCS)を考えていたが、登録局とあれこれ協議の結果、"Rajang central zone Community Service"(RCS)と言うことになった。外国人が責任者と言うことでクアラルンプールの本部との協議が必要と言うことで承認は大分先になった。

 事業の実施場所については、何人かから自分のところを使っても良いと申し出を受けた。最終的にはロングハウスのトアイルマであるマイケルに使用権のある場所を使わせて貰うことに決まった。ただ、此処は山で整地しなければならない。誠に恥ずかしい話だが、この段階になって資金計画が問題になった。「予算はどの位あるか。」「予算はない。」整地、建物建設、備品、利用者の毎日の通所方法、スタッフの手当、給食、その他の発電機購入や水道設備など、マレーシアとはいえ少なくとも日本円にして数千万円のアテがなければ普通は計画しないのに、予算はないがするという無謀な話。全容を知ったら誰でも身を引くに違いない。従って、誰にも言わず、密かに無謀のまま実行することにした。

 工事は2006年1月2日の朝始まった。3週間の予定で山の半分を切り崩し、1エーカーの平地をつくる工事だった。あの朝、ブルドーザーが威勢良く入っていった場面を今でも私は憶えている。いよいよ始まる、失敗は許されない。このデイセンターの建設に、本格的な業者が入ったのはこの整地工事だけだった。後は全部ロングハウスの人たち、日本の大学などに呼びかけたボランティアによるワークキャンプでやり抜こうと考えていた。勿論、常時建築に当たる現場監督とワーカーには日当が必要である。それらを合計して予算として確保したのは300万円だった。

 整地には予想外の時間がかかったが、兎に角1エーカーの土地が出来た。支払いは当初の契約通り3万リンギット、日本円で90万円だった。土地が出来た段階で簡単な平面図をつくった。まず、柱を立て、屋根を付けることになり、堅いブリアンウッドを購入する手配をすると同時に、第1回のワークキャンプを計画し、日本の知り合いや大学に募集をかけた。宿泊や食事の関係もあり、10人を超えることは出来なかったが、サポート隊を組織して、ホテル利用で参加して貰った。この第一回のワークキャンプの様子が地元に新聞に大きく掲載された。これは全く予想外であったが、そのことが素晴らしい展開に繋がった。新聞の読者から連絡があり、「日本からの若者がボルネオの障害児のために汗を流してくれている。地元の我々が有り難うだけで黙っている訳にはいかない」と言って、さまざまな形の寄付が届いた。

 このワークキャンプは2017年3月まで18回に及んだ。延べ130人、最年少は19歳、最年長の参加者は78歳であった。男女数は、男性  女性  人であった。またワークキャンプの他に、読売新聞光と愛の事業団が企画した海外ボランティア研修も  回に亘って労働提供をしてくれた。

 殆どゼロの資金計画にも拘わらず建物が完成したのは、地域的な寄付文化のお陰だと思っている。日本の若者が頑張ってくれていると感激して電話をしてきた土木資材会社の社長さんは、生コン9台、煉瓦15,000個、天井板400枚を寄付、他にもタイル4000枚とか教具教材類など、多くの寄贈を受けた。

  生コン9台分が来ると約束した日の朝、村人30人ほどと読売のボランティアが集まり生コンのローリーが来るのを待った。予定時間が過ぎてもローリーの姿が見えず、不安がよぎった次の瞬間、遠くに生コン車が見えた。来た!来た!生コンが来た。その後20分の間隔を開けて次々と来た。あの時の感激もまた忘れられない。

 

 

フィロミナ、13歳

 

 近づいていった私たちを、彼女は顔の前に手を出してギャッと奇声を発し後退さりしながら迎えた。近寄るな!という意思表示であったと思う。13歳と言っても身体は小さく、一見した感じは4. 5歳の幼児のようだった。彼女は、ロングハウスの長い廊下の中程に造られた木の柵の中にいた。日本でいう一坪くらいの広さだ。一日中を此処で過ごす。飲むのも食べるのも排泄も。だからちょっと臭いがする。その中で格子に掴まって彼女は居たが、我々が数人で近づくと先に書いたように、外来者から身を避けるように奇声を上げた。父親と母親は畑仕事があるので、もっぱらおばあちゃんがフィロミナの世話をしていた。お漏らしの始末も衣服を取り替えるのも食べるのも飲むのも、全部彼女がしていた。周りの他のおばさんたちは、時々は排泄の後始末を手伝ったりする。他の時間は作の近くで、おばさんたちはおしゃべりを楽しむ。

 この木の柵は、彼女が自分で床を這って移動出来るようになって間もなく、ロングハウスの男たちが集まって造ったそうだ。大人が見ていない隙に外に出たらジャングルに迷い込む。そうすると探しようがない。偶然に出会う以外に見つかる術がないので、生命の安全確保のためにこの柵を作ったのだそうだ。

 これから始まるデイセンター「ムヒバ」の話は、彼女と出会ったことから始まる。だから初めに、此処はどこか、ロングハウスとは何かを説明しよう。

 場所はマレーシアのボルネオ島、州でいえばサラワク州。州都クチンからは飛行機だと30分、車だと5時間ほどのシブの空港から車で40分くらいのバワンという村である。ボルネオ島はさまざまな少数民族が暮らしていて、マレー系や中国系より少数民族の比率が高いといわれる。その中で多数派はイバン族で、街に働きに出ている人や高学歴で州政府などで地位を得ている人もいるが、多くは村で暮らしている。村では、ロングハウスという長い家に住んでいる。日本の長屋と同じだという人が居るが大分違う。似ているのは建物が長いというだけで、構造の考え方も全然違う。長さ50メートルのロングハウスもあるし、300メートルというのもある。そこに住んでいるのは一族の人たちである。5家族の場合もあるし50家族の場合もある。そして最大の特徴は、各戸は全て共用の廊下で繋がっているということだ。廊下の幅は狭い場合でも3㍍くらい、私のロングハウスは全部で16戸、長さ100㍍余、廊下の幅は7㍍だった。(私は一族ではないが、一族の長の兄弟分と言うことで名前を貰い、1戸を建て増したのである。)この廊下が、会議室にもなるし宴会場にもなる。雨の日の屋内作業場になったり、意外と涼しい廊下は暑い日中の昼寝にも格好の場所である。子どもたちには遊び場、イベント会場など、万能の廊下といえる。時に猛々しい自然に中で身を寄せ合って暮らしてきたイバン族の暮らしの知恵が生んだ住居携帯である。

 サラワク州で最も長いラジャン河の支流であるバワン川沿いには沢山のイバン族のロングハウスがあるが、その一区切りを「バワン地区」もしくはバワン村と呼んでいる。そのバワンのロングハウスのひとつ「ルマ ジョセフ ラウィン」という約80メートルのロングハウスの廊下の中程にフィロミナの木の柵があったのである。彼女のお祖父ちゃんはそのロングハウスの長(トアイ ルマ)で、フィロミナについて、孫は何も出来ない、身の回りのこと、しゃべること、何かを訴えることも出来ず、勿論学校に行けない。ただ不服の時うなり声を出すだけで、食べることさえ出来ない。どうしたら良いか分からない。何とか出来ないか、と切実な訴えであった。即座には何も言えなかった私だが、心に期するものがあった。彼は、出来る協力は何でもする、だから考えて欲しいと言い、分かった、彼女にとって何が良いか考えてみると私は言い、別れたのだった。

 

先ずは阿波の里から

 ~

 朝の散歩は清々しい。退職後ならではの楽しみだ。何の力みもなく頭も使わず、散歩そのものが楽しめる。目に映るもの全てが美しく吸う息も吐く息さえ美味しい。若い頃はダイエットの目的で、ウオーキングの研究したものだ。どの時間帯が最も効果的か。朝か昼か夕方か夜か、時間は何分が良いか、歩数はどれほど、姿勢や歩幅など、本を読んだり話を聞いて、さてその時間をどう生み出すかと悩んだりもした。何度計画を繰り返したことだろう。結局どれも長続きせず、ウオーキングは単純すぎるから難しいと、妙な敗北感が住み着いてしまったようだ。

 マレーシアで比較的長く実行したのは、シブの森林公園のウオーキングだ。サラワク州の森林局が造った公園で、自然の森を切り開いて、幅5 feet程の木の橋を総延長10Km程かけてある。ウオーキングもしくはジョギング用に作られたもので、街の人々が友人と、或いは家族連れ出来て歩く。若い恋人風もいれば老夫婦も居て、職場のサークルのような集団とも出くわす。橋の材質はアイアンウッドとかブリアンウッドと呼ばれる家の柱などに使う堅い木材だ。運動靴で歩くと実に歩きやすい。ところどころに東屋のような休憩所がある。売店などは一切ない。トイレは入口にあるだけ。破損箇所が見つかると直ぐ修理の人が来るし、ゴミなどは全く落ちていない。夜は門が閉まる。入場は無料のところと1人50セント(1リンギットの2分の1~約15円)取るところがある。

 この森林公園には主に午後から夕方にかけて町の人たちがやってくる。大きな駐車場に車を止めて運動靴に履き替えて歩き始める。何人かのグループで来る人、ひとりで来る人、ご夫婦らしき人など様々だ。楽しげにおしゃべりをしながら歩く集団もいるし、如何にも老後の楽しみという感じで杖をついてたり手を繋いで歩くお年寄りもいる。自分で好きにコースを選べるから、体調などに合わせて距離を調節出来る。虫が鳴いたり、小鳥の声など、時に賑やか、シーンと静かな一瞬もある。そんな中を如何にもアスリートらしく、駆け抜けて行く若者もいたりする。歩きながらは追い越した時も越された時も声はかけないのだが、すれ違った時は声をかけることが多かった。最後は出発地点に戻るのだが、戻ってくると矢張りホッとして、会話がしたくなる。初めの内は何処から来たから始まって、何をしているか、マレーシアをどう思うかなどの話が多かったが、お互い馴染みになってくると、最近の日本の様子や世界情勢、時には昔の日本軍に関することなども話題になって、本音はこんな風に思っているんだといったような驚きもあった。

 歩いていて出会った人と街で会ったりすると「ハロー」と声をかけてくれるのだが、エッ?どこであった人だっけ?と戸惑うことも度々であった。そうすると、ほら、森林公園だよ!と教えてくれたりしたものだ。何となく仲間の気分で嬉しいのだが、人の見分けが付かないのには困った。練習のしようがない。兎に角あちらの人は良く人の顔と名前を覚える。こちらが外国人だから憶えやすかったのだろうか。 

 

 さて、阿波の田舎の今の散歩。時間は朝と決めた。空気が新鮮で何とも美味しい。車が一台しか通れない道幅のせいか、車は殆ど通らない。いわゆる農道である。道の両側は主に畑。この畑を見て歩くのが楽しい。昨日の朝と今日は違う。昨日は一日農家の人たちが働いた跡がくっきり残っている。或いは殆ど何も変わった風情のない日もある。野菜のゆっくりした成長が、急に早くなったみたいに、昨日まで気づかなかった実の生育に驚く日もある。収穫した後の草が生えかけていた畑は、やがて畝が出来種が蒔かれ、芽が出て育つ。見る間に育つもの、あまり急がないもの、様々だ。

 歩きながら思ったことが二つある。ひとつは様々な農業機械が入っていることだ。畑の顔が一日で変わる原因のひとつに機械の力がある。昨日草だらけだった畑が、今日はもうきちんとした畝が立ててあったりする。昼間はあまり歩かないので、どんな機械類が活躍しているのか確かなことは分からないが、農家の庭の奥を伺うと、耕耘機ばかりでなく、数種類の苗植え機などの特殊大型自動車が見える。農家も大変だなあと思う。支払いに追われていることだろう。若い人たちは職を見つけて街に出て行き、どの地方も変わらず農業を守るのは中高齢しゃになった。先が思いやられる。高価な器機の支払いが済むまで農業が続けられるのだろうか。それまでの間に何かあったら、その後はどうなるのだろうか。

 もう一つの課題とも此処で結びつく。朝、気持ち良く朝の空気を吸いながら歩いていて機になるのは休耕田である。何も使ってない畑だ。結構な数の畑に、何ら手が付けられず、草ぼうぼうになっている。大小さまざまの区画が、如何にも見捨てられたと訴えているようで哀れだ。何か有効活用の道はないのだろうか。国土面積、耕地面積が充分とは言えない日本で、どうしてこんな無駄が許されるのだろうか。

 上に書いた最新の農業器機と休耕田を「ゴトンロヨン」で結びつけることは出来ないだろうか。空いた農家を見つけ、休耕田を集め、農耕器機を持つ農家に呼びかけて、そこに若者が参加するプロジェクトが可能ではないか。今はやりの地方創生に留まらず、国土と暮らしの再発見は出来ないだろうか。

 朝の散歩から生まれた私の妄想を実現してみたい。